LOGIN「熱はなさそ」
うね、と続けようとしたら、イアンが急に立ち上がって最後まで言えなかった。
オリヴィアは立ち上がったイアンを視線で追い、その顔を見上げた。「すまない、オリヴィア……具合が悪いようだから先に寝る事にするよ」
「イアン……デザートは?」(デザートの心配をしているわけじゃないのに……)
いつもと違う様子のイアンにオリヴィアは面食らってしまって、ついイアンの背後に給仕の従僕がプリンを運ぶ姿が目に入って口に出てしまった。「オリヴィアが食べてくれアンの実家は帝国から遠くにある辺境の地だ。首都からどんなに馬を走らせても早くて二週間はかかる場所だ。 大昔、帝国の皇女が恋に落ちた騎士が居た。二人は身分の差があったものの、想い合っていたとされる。騎士は彼女を手に入れる為、数多くの武勲を挙げ遂には認められて、この地を皇帝から受け賜り、それから皇女は騎士の元へ降嫁した。以来アスコット家はこの土地を治め良き領主として、代々騎士の家系として繁栄し続けた。現在は二人の子孫であるアスコット家長女、アンの母親ジェレミアが領主として治めている。そこへ皇帝が邪険にしていた腹違いの弟、キースを遠くに行かせたいが為に皇帝の命で婿にさせた。 政略結婚だったが皇帝の思いとは裏腹に二人の仲は良好だった。曲がった事が嫌いで男勝りなジェレミアに思慮深いキースは意外とマッチした。だから愛し合った末に子供が五人、誕生している。 その実家へ足を踏み入れると、最初目にしたものにアンは唖然とした。危篤だと知らされていた父親が手紙を送った三歳年上の兄と元気に剣の稽古をしていたからだ。話を聞けば、そんな手紙を送っていないと言われ、アンは青褪める。胸騒ぎを抱えたまま飲まず食わずで馬を走らせても、二日早く着いただけだった。結果二十六日も留守にしてしまった。「オリヴィア皇女!!」 小屋に足を踏み入れるとオリヴィア様の姿はなかった。小屋を出た際にあった飲みかけのカップが置かれていて、虫が浮いている。それからテーブルの上には元凶の手紙と封筒があった。手に取ってアスコット家の家紋の入った蝋封をよく見れば精密に作られた偽物だった。剣二本を交差した中央に描かれた鷹に爪が一本足りない。右下がりの癖まで兄の筆跡と同じなのに、これは偽物だ。 小屋を出て城内を探し回る。四姉妹の元にもオリヴィアはおらず、行き先を訊ねても答えるわけがない。ただ、オリヴィアと同じ年の第四皇女だけが愉悦に口元を歪めていて、それが異様に不気味だった。 最後に踏み入れたのは皇帝の寝室がある王宮だった。部屋に近付けば近付くほど、泣き声と叫び声が聞こえる。オリヴィア皇女と名を呼ぶと「助けて」とアンの名前とともに助けを求められる声が耳に入った。剣を抜き、寝室へ向かう途中の
アンは二人が結婚して同居した初日、同じベッドで寝ている姿を目撃して祖父から譲り受けた短剣を枕に刺したのは昨日のことのように思い出せる。 正直一緒に寝ることは今でも反対している。しかし、オリヴィアから 『お母様がいた頃のように誰かと同じベッドで寝たい』 『アンは寝てくれないでしょう?』 と言われて、最終的にアンが折れた。 『命に関わらない』 だろう……。しかし、貞操の危機はある。 万が一の場合、アンは常に動けるように就寝時でも短剣を枕の下に隠していたし、叫び声が聞こえたらすぐにでも動けるように寝着は動きやすいものを選んでいる。 だが、この数年間奇跡的に何もなかった。イアンという男はオリヴィアを好きだと言ってはいるものの、手を出す気配はない。 (無駄に筋肉を鍛えているわけではないな) アンは男の機微に疎かった。だから、イアンがどれほど耐えているかなんぞ想像ができないのである。だから、オリヴィアがイアンとくっ付いて寝ている事に対して、ただ『鍛えている男は違うな』という感想しか抱いていなかった。イアンの努力の賜物だと考えた事がない。そういう彼女だから、夫婦の寝室とイアンの部屋が夫婦の営みの音が漏れないように作られていることなんぞ知りもしなかった。 アンが真実を知るのは二十分後。食堂の前を通過しようとした時である。 離婚の準備に新しいドレスを新調すると良いかもしれない。あの男から慰謝料もぶんどって──とか考えながらスキップして廊下を歩いていると、『奥様』という単語が耳に入って彼女は咄嗟に壁に背をつけて立ち、盗み聞きをする。 『奥様と旦那様が遂に結ばれたのね』 キャ~というメイドの悲鳴。語尾にハートマークがついていてアンが顔を顰めた。 (結ばれた、とは……?) 『やっと奥様に手を出されたんですね~。見ていてやきもきしてましたもん』 『奥様もやっとご自分の気持ちに気付いたんですね』 『愛された跡を見られたくない、って奥様が言ったんですって。きっと、初夜は激しかったんだわ』 キャ~と色めき
※ アンはオリヴィアを起こす為に、彼女の部屋のドアをノックするも反応がない。ゆっくりとドアを開けると姿がなかった。昨夜、オリヴィアがイアンへ謝罪に向かってから戻ってきていないようだ。 (仲直りしたか) アンはチッと舌打ちをした。 今度はオリヴィアの部屋と繋がった夫婦の寝室のドアを叩くと反応がない。寝台はもぬけの殻でシーツに乱れがなかった。 (あの男の部屋に行ったっきりか……?) そして、夫婦の寝室に繋がったイアンの部屋の扉をノックしようとしたら、名前を呼ばれて手を止めた。声がした方に視線を送るとエレンだった。 「奥様がしばらくは一人にして欲しいって言ってたわ」 「一人に? なぜです?」 「昨日、旦那様とお話しされて色々考えたいんですって」 「ついに離婚ですか?」 やった、とアンは笑顔になった。エレンの顰め面なんて見てもいなかったし「違うわよ」という否定の言葉も聞いていない。 「と、とにかく! 部屋に行ってはダメよ!」 エレンからギュッと手を握られ念押しされているものの、アンは返事だけして全く聞いていなかった。彼女の頭の中は『オリヴィア様とあの男が離婚する』という事でいっぱいだった。 「人の話を聞いてる!?」 グイッと顔を覗き込まれ、エレンの手を払い今度は自分が彼女の手を握り締め、己に引き寄せた。 スラッと背が高く、中性的な顔をしているアンから顔を近付けられて同性にも関わらずエレンはドギマギしてしまう。しかも、 「エレン、ちゃんと聞いてます」 女性にしては低音で、耳元で囁かれ顔が一気に熱くなった。先ほど、オリヴィアの『愛された跡』というのを同時に思い出してしまって余計に顔が火照ってしまった。 「お嬢様が考えるお時間を邪魔しません」 エレンはアンを何度も振り返って、「ぜ、ぜったいにそっとしとくのよ……!」と念を押しながらその場を後にした。 アンは笑顔のまま手を振って見送る。彼女が廊下を曲がったのを見届けて「よっしゃーーーー!!」とガッツポーズ。 「オリヴィア様は
自分の顔を両手で挟んでオリヴィアは叫び声を上げた。 鏡に映るオリヴィアは六歳の頃のオリヴィアだった。あんぐりと口をあけたまま、夢かと思って自分のお腹を抓ってみたが……痛い。と言ってもさっき顔を強打した時に夢ではないと立証済みである。 「うぇぇえぇぇぇぇぇぇぇ???」 (好きな人と一つになったら、若返るって効果があるの?) 「こんな姿でイアンにキスしたら、イアンが捕まっちゃうわね……」 「──奥様」と扉をコンコンと叩く音でオリヴィアはピョンと跳ね上がった。慌てて寝台へ戻り、シーツへ潜る。 「叫び声が聞こえましたが、どうされました?」 「エレン……だ、大丈夫、ベッドから寝ぼけて落ちたの!」 メイドのエレンだ。心配そうな声音で扉の前に彼女は立っていた。 「ケガはされていませんか? 救急箱をお持ちしましょうか?」 「だ、大丈夫よ! 痛くないから……!」 と言えばエレンは「しかし……そんな叫び声ではありませんでした」と食い下がらない。 「あ、あ、あの、お腹がちょっとだけ、痛くて」 「ではお腹を温める物をお持ちしましょう」 まずい。 この姿を見られたら、誰か分からずに追い出されてしまう。 「そ、その、痛いって言うのは、病気じゃなくて、その、イアンと、昨夜、あれを、したからなの! あれっていうのは、交わりね!!」 他人に言うとなると恥ずかしく、全身カァーと赤くなってしまう。 「奥様のお身体を考えず激しめにされたんですね?」 信じられない、と軽蔑の声が上がってオリヴィアは心中でイアンに謝罪した。昨夜の彼はとても優しかった。誤解を解こうと口を開いたものの、それを告げるには少々ばかり遅かったようである。 「あんなデカい身体で向かってこられたら、お腹痛いで済む筈ありませんわ。そんな奥様を一人放って置いてお勤めに出て行かれるなんて夫失格です。身を清めるお風呂の準備と医者の手配を致します」 「医者!?」 (大袈裟じゃない!?) ドアの前を去ろうとするエレンをオリヴィアは呼び止めた。この姿でみんなの前に
※ 「うん……」 オリヴィアは目を擦りながら、重たい瞼を持ち上げて目を覚ました。カーテンから漏れる光は明るみがあって、陽が差し始めたようだ。 キョロキョロと見回すとイアンの姿がない。いつもなら隣で寝ているのに。居た筈の場所に触れると冷たくなっていてオリヴィアは寂しそうに俯いた。 「初めてしたあとに居なくなるなんて、ひどいわ」 拗ねたようにプゥと頬を膨らませる。しかし、ベッド端に置かれたワゴンの上のケーキ皿が空になっていて、オリヴィアは目を輝かせた。 「食べてくれたんだわ……」 ベッドから起き上がることはせず、腹ばいでワゴンへ近付く。きっとアンが居たら行儀が悪いって注意されるだろうけど、今はアンは居ないからいくらしたって怒られない。 ケーキ皿を覗くとメモに気付いて、オリヴィアは手に取った。 『おはよう。 ヴィーにたくさんキスをしたいから予定より早めに切り上げる為に少し早いが仕事へ出かける。 今日も愛してるよ。 イアンより』 「フフッ」と顔を綻ばせ、オリヴィアは転がりながらベッドの中央に戻る。起きる時間にしてはいつもより早いが、眠気はもう残っていない。それでも起き上がるのが面倒なオリヴィアはゴロゴロとベッドに転がったまま、イアンが帰宅したら彼に飛び付いて、私からキスをしようと計画を立てた。きっと驚くはず。 その表情を思い浮かべてニヤニヤする。 それから、うーんと寝転んだまま背伸びをした。 (とっても、身体が軽いわ) 腰も痛くない。 飛べそうなくらい身体が軽い。 (イアンと気持ちが通じ合って、心が軽くなったからね) それが、身体に直結しているのね、と結論付けた。 「喉の調子も良い」 すっきりしている。いつもより声が高いような気もする。 「好きな人と繋がるって、身体に変化をもたらすのね……」 夜の情事を思い出して、赤くなる。イアンの声は低いとは知っていたけど、耳元で聞くと、その低音があんなに響くなんて知らなかった……。
そう言って、苦笑を浮かべるジュレック。 「奥様もやっと自分のお気持ちに気付かれたのでしょう。旦那様も奥様へ一線引く事をお止めになったようで、ようございました」 「俺は、そう見えていたか?」 オリヴィアに一線引いているように彼らから見えていたのか、と面食らうとターニャとジュレックは「見え見えですよ」と声を揃えた。 「キレイ、美しい、女神、好き、愛している、と言っておきながら奥様に触れようとなさらないじゃないですか。いつも奥様から手を繋いでこられるでしょう?」 「そんな奥様の腰を引き寄せようか、どうしようか迷った挙句に腕を宙ぶらりんにしていたり」 「食事中、奥様が食べている所をじっと見つめ」 「食べ終わって会話をなさると、聞いてはいるものの、奥様を見ていない振りをして」 「奥様が」 「もういい、分かった、分かったから」 ターニャとジュレックが、イアンの駄目な所を延々と喋るところを右手を上げて制した。ピタリと二人は口を閉ざす。 コホン、とイアンは咳払いをした。 「ずっと、不甲斐ない所をみてきた、って事だな」 「そうですわね。邸で働く使用人達はそのもどかしさにやきもきしておりましたよ──クロールとアンは省きます」 「全員!?」 「「はい」」 「全員か、そうか……」と呟いてイアンは再度気を取り直して咳払いをした。まさか、使用人全員が自分とオリヴィアの仲を「もどかしい」と思って観察していたなんて思いもしなかった。 「その……オリヴィアは、本当に最初から俺に惚れていたか?」 イアンは拳を口元に当てたままボソボソと小声で呟く。オリヴィアは閨で「出会った時から」と言っていた。他人の口からも聞いて、安心したいとイアンは思ったのだ。初恋を拗らせた男はオリヴィアからだけでなく他人からも聞いておきたかった。安心という「保険」である。 「それは奥様に聞いた方がよろしいですよ」とジュレックが言うのをイアンは「そこをなんとか!」と遮った。 「他人の口からも聞いて安心したい!」 彼はこの国の英雄だった筈だ。 そんな男がオリヴ